いつまでデマを見抜くことができるだろうか
自分はネット上のデマをデマといつまで見抜けるのだろうかということを考えるとわからなくなります。 既に信じてしまっているデマも色々とありそうです。
最近の私の感想としては、ネットのデマに関しての認識は、コンピュータセキュリティが辿った道に近いものになりそうな予感がしています。
今、こんなことを言うと信じてもらえないというか常識を疑われると思いますが、10年以上前は「ファイアウォールを使うなんてエンジニアとして軟弱」みたいな雰囲気があり、「ファイアウォール使いましょうよ」と提案したら「エンジニア魂は無いのか!」と真面目に怒られるなんていう話も聞いたことがあります。 しかし、今では私のまわりの多くの人が「外部からの侵入を100%絶対防げると言い切れる自信なんてない」という表現をします。
ネットのデマに関して、今は「嘘を嘘と見抜けない人には難しい」という明言が未だ健在ですが、意図的にデマを流す人々が登場し、そのような人々のノウハウが上昇することで、「ネット上の嘘を見抜くなんてもはや無理じゃないの?」のような雰囲気に変わりそうな気がする、というのが最近の私の感想です。
ネット上の情報に関する雰囲気は、徐々に変わりつつあります。 数年前は「ネットがいかに素晴らしいか」を皆で競って表現していましたが、いつしか「ネットがいかに駄目か」を表現するのが最新トレンドのようになりつつあるようなイメージを持っています。 2009年に「日本のWebは残念」という発言が物議をかもしましたが、「今、全く同じ発言をしたときの読者の反応はどうなるのだろうか?」と考える事もあります。
選挙の前は「みんながもっと政治的な発言をすれば日本が変わる」みたいな雰囲気がありましたし、Twitterによって世界に革命が起きるという主張も色々とありました。 その前は、ブログによって情報の在り方が変わるという表現の流行がありました。 その頃、多かった表現は基本的に「ネットは純粋な善である」的なものであった感想を私は持っています。
時が流れ、気がついてみると「Twitterはバカ発見器」とまで言われています。 口蹄疫のときや、震災後の情報の流れ方を見ているとレッシグ教授が危惧していた「頭が良すぎる大衆」というのは、こういうことかなと思うこともあります(参考:「透明性」って本当に副作用がないの?)。
しかし、ネットの全てが駄目であるとは思いません。 それまでできなかったことができるようになったり、それまで交流されることがなかった人々が交流するようになり、非常に有意義な変化は実際にあったと思います。 実際、私はTwitter等のソーシャルメディアを使うのは大好きですし、非常に有意義なツールだと思っています。 そもそもこの文章だってブログというツールを使ってますし。
とはいえ、便利なものは誰にとっても便利なものであり、それが悪用されることもあります。 また、悪用ではなく純粋に正義のために行っているというつもりでも、他人もしくは別の正義から見ると「悪」となるような場合もあります。
そういった色々なものが混ざり合いつつ、ソーシャルメディアマーケティング的なノウハウが凝縮されつつ上手に流されたデマをデマと見抜くのが難しい未来が来るような気がしたり、実は既にそういった時代になっているかとか、そもそもインターネット以前からそういう世界だったのかとか色々と妄想しつつも結論の無い文章を書いてしまう今日この頃です。
追記
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