ネットでは「誰もが有名人」である
先日、Twitter上で有名人 vs 自称非有名人という構図のバトルが発生しました。 自称非有名人であるユーザが有名人に対して批判的な意見を「個人的なつぶやき」としてTwitterに書き込んだ事が発端でした。 この批判的な意見は有名人に届き、有名人はTwitterで反論を行いました。
反論された自称非有名人は「テレビに出てる人に文句言ってる感覚」という感想とともに謝罪を行いつつ、有名人が反論するのは「大人げない」と不満をTwitterやブログに書き込みました。 それらの推移を多くのネットユーザが見つつ、様々な意見が様々な人々によって様々な媒体を使ってネット上に吐き出されました。
Twitterに書いた人、ブログに書いた人、ソーシャルブックマークに書いた人、はてなの匿名ダイアリーに書き込んだ人、2chに書き込んだ人、本来ならば何気ない、自分では自分が有名人であると思っていない個人の行動が様々な人々によって「伝播」していく状況が、そこにありました。
有名人って何?
さて、このような状況下において、この「自称非有名人」は有名人でしょうか? それとも無名ユーザでしょうか?
それを考えるには、まず「有名人」とは何かを考えなければなりません。 誰が有名人で、誰が無名な人なのでしょうか?
恐らく、「誰が有名人か?」という問いには単一の答えはありません。 特定の誰かが有名人であるかないかは、各個人の主観でしかないからです。 どんな有名人であっても「そんな人は知らないよ」という人物画何処かにはいます。 例えアメリカの大統領であっても、秘境の地に行けば知らないという人はいると思われます。 そして、その秘境の地には、そのコミュニティから見た「有名人」という存在が居るはずです。
このように、「○○は有名人」というのは各自が判断することですが、コミュニティ内に「○○は有名人」と思う人が多いかどうかが問題となってきます。 「○○は有名人」と思う人が十分に多く、コミュニティとしての緩いコンセンサスが得られていれば、そのコミュニティ内において、その人物は「有名人」と言えるのだろうと思われます。
誰もが有名人
有名人の定義が「コミュニティ内で知っている人が多い事」とすれば、次に考えるのは「コミュニティって何だろう?」という事です。
コミュニティの規模を少しずつ縮小していったとき、例えば5人のコミュニティがあったとして、その中の全員が知っている人は「有名人」と言えるのでしょうか? アルファブロガーという単語を産み出した徳力さんは「5人でも影響を与えれば、アルファブロガー」と言ったそうです。 そう考えると、5人の読者がいればその人は「有名人」であるという極端な暴論もあり得ます。
ここまでは、非常に極端な論理展開です。 5人が極端に少ない人数なので「有名人」の定義としては認められないとしましょう。 では、1万人が存在を認知していれば、その対象となる人物は「有名人」でしょうか? 恐らく「まあ、それなら認めても良いかも」と心揺れる人もいそうです。
では、次の質問です。 その1万人が存在を認知していなければならない期間はどれぐらいでしょうか? 10年間1万人が存在を認知している必要がありますか? 1年でいいですか? 半年でいいですか? 1ヶ月でいいですか? それとも1日でいいですか?
もし、期間は1日でもいいから1万人が存在を認知していれば有名人と言えるのであれば、今回の騒動で自称非有名人なユーザのかたは、ある特定の期間は「有名人」であったと言えます。
このように、ちょっとしたイベントや思わぬ形で、本人が望むかどうかに関わらず「有名人」という土俵に引っぱり込まれる可能性があるのがWebにおけるコミュニケーションなのではないでしょうか?
フラットな世界が産む現象
今回の件のように「引っ張り出される」という状況は、ネットのフラットさが生んだ現象なのかも知れません。 現在のWebの世界は善くも悪くもフラットな一面を持っています。 テレビや雑誌を見ている場合とは異なり、Web上で発信された情報に関して単なる個人的な感想を気軽に述べたつもりでも、それが著者に届いてしまいます。
そして、どんな人であっても「有名人」も人間です。 嫌な事を言われれば嫌な気分になりますし、酒を飲んでいる時に変な絡まれかたをすれば全力で牙を剥く可能性もあります。
なお、自分の発言が予期せずに広まってしまうという状況の発生頻度は、情報発信を行うプラットフォームに依存しそうです。 例えば、今回と同様のつぶやきを、はてなブックマークのコメントとして発信したのであれば何も発生せずに終わったのかも知れません。 Twitterという双方向性が高いプラットフォームであったがために、今回のように「予期せず引っ張り出される」という状況が発生したとも考えられます。
「引っ張り出されてしまう」という現象の発生頻度は、プラットフォームのフラットさ、双方向性、匿名性によって変わるような気がしています。 ネット上で情報発信するときには、発信を行うプラットフォームの特性も考慮した方が良いのかも知れません。
大小こそあれ、誰もが誰かに影響を与えている
「自分に影響力が無い」と考えているかも知れませんが、オンラインで情報発信をしているのであれば「全く誰にも影響を与えていない」ということは無いと思われます。 ブログなどを運営していれば、何らかのアクセスは発生していると思われます。 普段はアクセスは「数字」にしか見えないかも知れませんが、数字の向こうには人間がいます。
「人に影響を与える」というのは、読者に対して何かの行動を起こさせたり、その記事を読んだ事によって何かを購入させたりすることだけでは無いと思います。 その文章を読んだ人が一瞬でも何かを考えたり、連想させたりという事も立派な「影響」ではないでしょうか。
Twitterを使っていると、人が他人の発言に影響を受けて何か新しい発想を得たり、自分なりの意見を書いたりする状況に日々遭遇します。 Twitterは、有名人であるか無いかや、フォローされている人数に関係無く、多くの人々が多くの人々に影響を与え合っているという事が実感しやすいサービスなのかも知れません。
「影響力あるんだから言うな」
「影響力があるから言うな」という発言をネット上で見る事がありますが、あの発言は「自分が好ましくないと考える思想を広めるな」という意味だろうと思います。 恐らく「影響力があるから言うな」と言っている発言者は、「影響力がある」と思っている相手の発言を多くの人が見ていると認識しています。
ただ、個人的には「影響力があるから言うな」は非建設的だと考えています。 「影響力があるから言うな」と言われて発言を直ぐにやめるような人物であれば、そもそも「影響力がある」状態にまでならないのではないでしょうか? そのため、「影響力があるから言うな」と言ったところで、結局は「不快である」と言っているのと何も変わりません。 それならば「不快である」の方が非常にストレートで良いのかも知れません。
詭弁にしか聞こえないかも知れませんが、今のWebの世界ではタイミングと内容と状況さえマッチすれば、誰にでも大きな「波」が起こせてしまいます。 「影響力がある人は言うな」と言うよりも、自分が間違いだと思う事を説得力がある文章で表現できれば「間違い」を正せるかも知れません。
Webの世界は現実の世界同様に「誰が言ったか」が大きな意味を持ちますが、現実の世界と違って「発言の機会」は広く平等に与えられている事が多いです。 そして、その発言に光るものがあれば、それを拾い上げる人もいます。
最後に
ネット上における情報発信は誰もが有名人であるという想定で行うべきだと私は考えています。 「自分は安全地帯に居る」と信じて油断した時の発言ほど爆発的に広がるのかも知れません。
いきなり注目されている現場に、無理矢理引っ張り出されてから「人に見られる」という感覚を実感してしまうのは、ある種の「恐怖」に近いと思います。 引っ張り出されても大丈夫なように匿名性に注意するか、常に「見られている」と意識するかのどちらかを心掛けたいと思う今日この頃です。
追記
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