ネットコミュニティと同調圧力
私はある意味ネットコミュニケーション楽観主義者だと思います。 顔を出した状態でブログを続けたり、お会いした事もない方々とネット上でコミュニケーションを続けつつ、楽しんでいます。 また、非常に多くの知識や経験や利益をネットコミュニケーションから得ています。
一方で、長時間ネットコミュニケーションに漬かっていると、どうしても悪い側面も見えて来てしまいます。 そのような意味で、同時に私はネット悲観論者でもあると感じています。
例えば、「今の日本国内でのネットコミュニケーションでは、コミュニティ内部での意見の多様性を抑制しがちなのかも知れない」と思う事があります。 自律分散的に点在する様々なネットコミュニティには、それぞれの独自ルールが存在しており、 それに反する何らかの表現をすると「ぐわーーー」っと批判的な人が発生して、集中的に誰かを批判する状況を目にする事が多いです。 何度かそのような状況に出会い、そのようなスクラムを恐れてネット上での発言そのものを控えることによって、結果としてネット上に存在するコミュニティ内での意見の多様性は抑制されるのかも知れません。
1. 開放的な気分と表現のストレートさ
このような状況が生まれるのは「顔が見えない」というネットコミュニケーションの特徴が影響を与えているのかも知れないと考える事があります。
ネット上でのコミュニケーションでは、ある程度の匿名性や実名であったとしても「顔が見えない」ことによってリアルなコミュニケーションとは違ったコミュニケーションが形成されがちです。 例えば、「顔が見える」と言えない事を言えるようになるという傾向もありそうです。 どこかの大学教授や社長に向かって「頭悪い」というコメントを書き込む敷居はさほど高くないと思われますが、面と向かって本人に同じ事を言うのは敷居が高いです。 ネガティブなコメントではなく、友達感覚でのやり取りに対する敷居もリアルとネット経由では異なりそうです。
また、会った事があるか無いかでコミュニケーションが変わる場合もあります。 個人的には、リアルで会ったことが無い人とのネットコミュニケーションは「親しさ」や「コミュニケーションの敷居が低い」状態が発生する場合もあるように感じます。 不思議な事に、例えば若い人が年齢が非常に離れた人とリアルで出会った瞬間に急に丁寧になるという傾向が日本では存在している気がします。 そして、一度でもリアルで会ってしまうと、以後はネット上でのコミュニケーションがよそよそしくなる場合もあります。 これは、「顔が見えなかった」相手の「顔が見えてしまった」のが原因であると予想しています。
このように「会った事も無い人」というのは、リアリティではないのかも知れません。 そして、リアリティでは無い相手に対しては、リアルよりも強く(もしくはストレートに)何かを主張できるという側面もありそうです。 結果として、ネット上での不特定多数同士のコミュニケーションの方が表現がストレートになり、メッセージを受け取る側にとっては「攻撃」と認知されやすくなるという弊害があるのかも知れません。
2. 脱個人化作用と一体感
「目の前にいない」ことによって脱個人化作用(Deindividuation)が促進されるという研究もあります。 脱個人化作用は、個人が集団の一員となって「集団の規範」に従う事を要求するような「場」を作り上げます。 そして、そのような「場」では個人の意見ではなく、集団の規範やその場のノリなどが優先されるような雰囲気が出来上がります。 この状況を「空気」と呼ぶ人もネット上にいます。
2チャンネルで全員が同じような口調や表現を使うのも、脱個人化の一種だろうと思われます。 同様に、特定の場で何とかして無理矢理でも駄洒落を言わなければ浮いてしまうというのも、この一種かも知れません。
脱個人化作用は、参加メンバーの「一体感」や「集団の魅力」を上昇させるという研究もあります。 ネット語を皆で使っている時の高揚感というか一体感というのも、実はこの一種なのかも知れません。
そして、脱個人化作用による「集団の規範」を守る事を強いる状況は、各個人による主張などの多様性を減少させる方向へと作用するのではないかと最近私は考えています。
3. 半年間ROMれ
「半年間ROM(Read Only Member)れ!」というのはネット初心者に対する一般的なアドバイスです。 まずは、最初は遠目にそのコミュニティ内でのやり取りを見て学べ、ということです。
これは、ネット上でコミュニケーションをするには非常に有効なアドバイスだと思います。 不要な紛争を避け、ある程度の安全を確保しながらネットコミュニケーションを行うには必要なフェーズです。
しかし、実はこれは「我々の作法を見よう見真似で習得しろ」とか「暗黙の掟を肌で覚えろ」と言っているのと同義かも知れません。 要は、脱個人化を促進するためのアドバイスかも知れないという事です。
半年間ROMってネットでのしきたりを身につけた新ユーザは、さらに新しく入って来た初心者を「ネット流」に仕立てるために教育を行うのだろうと思われます。 そして、ある種どこかで画一的な味を持つ表現者が増えて行きます。
似たようなものとして、RTFM(Read The F*ck'n Manual)やググレカスという表現もあります。 これらは、どちらかというと先人の知恵を自分の力で調べてから質問して、他の人の手を煩わせるべきではないという思想が強いものですが、実は「半年間ROMれ」と同じような作用があるのかも知れないとも思いました。
4. 強いものだけが生き残る
特定のコミュニティから見て「変わった」主張をする人が全くいないわけではありません。 心臓に毛が生えているような「強靭さ」を兼ね備えた人は、いくらネット上で批判されても自分の主張を続けられるように見えます。
そのような「打たれ強さ」と「極端さ」を両方とも兼ね備えたような人々がネット上で特に目立つのかも知れないと思う時があります。 ただ、そのような打たれ強い方々がバシバシ攻撃されるのを目の当たりにした多くの観衆は、自分が同様に批判されるのを恐れてしまい、特定の方向性の主張は自重するようになってしまうという効果もありそうだと思います。
5. 褒めると批判される
ある特定のネットコミュニティに好まれない表現をしている人を褒めるだけで批判されることもあります。 それによって、まわりは特定の意見に賛成的な考えを持っていても褒める事を躊躇する場合もありそうです。
そういえば、2年前に「My Life Between Silicon Valley and Japan : 直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。」という記事が話題になっていましたが、恐らく「褒める」ことによって批判される場合もあるという点も「褒める」ことに対するバックプレッシャーになる場合があるのかも知れないと、この文章を書いていて思いました。
もちろん、普通に褒めて良いことは多くあります。 しかし、褒めても大丈夫なものと褒めると自分に槍が飛んでくるかも知れないものがあるという点では、コミュニティ内での意見の多様性への影響はあるのかも知れません。
6. 異文化に「届いた」ために発生する場合
コミュニティ内だけで話をしていたと考えていたのに、いつの間にか無理矢理別コミュニティに引きずり込まれて批判されるという事例もありそうです。
長い間、何も問題なくオンライン上で活動していた人に対して突如として大量の批判が集まる事があります。 信じる物が違う人同士が出会ってオンライン上で一向に噛み合ない議論を延々と続けているような場合、そもそもの議論の発端が「異文化に情報が届いてしまった」という理由がありそうです。
信じるものや職業や趣味や嗜好や思想などが異なると、全く意見が噛み合ないことがあります。 そして、ネット上では同じような趣味を持つ人はクラスタを構築して集まる傾向があるため、全くの異文化に関する情報が異文化へと伝わると、摩擦が発生するという状況がありそうです。
7. 国や文化によって変わりそう
通信という意味では、今でもあらゆる言語の情報にアクセスが可能です。 しかし、今は言語の壁のおかげである程度は世界がセグメント化されています。 例えば、日本語で書いた個人のブログが外国で勝手に翻訳されて晒されて炎上するという事例はあまり聞いた事がありません。
自動翻訳技術が人間による翻訳と変わらないぐらい飛躍的に向上したり、検索エンジンがいつでも勝手に単語を翻訳して検索してくれたり(今ある関連検索という範囲を超えてという意味です)、母国語と英語以外の情報をひたすら巡回して仲介するような人が増えたり、したときに世界がどうなるのか私には想像もつきません。
もし、ネットにおける言語の壁が技術で全て解決されるような事があれば、きっと今よりも多様性を殺す方向性は強くなるのではないかと勝手に予想しています。 例えば、定食屋で食べた料理の写真を公開しただけで文化が違う人から激しく批判されるような事もあり得るかも知れないと感じています。
8. そしてSNSへ逃げ込む
「ちょっと当たり障りがありそうな内容はmixiで」という使い分けは良く目にします。 これは、きっと「異文化交流」を避ける為の自己防衛なのだろうと思います。 オンライン上に情報を出す限りは「完全な安全」というのは存在しにくいのでしょうが、少なくとも検索エンジンには載らないので、オープンなブログなどと比べると予期しない「異文化交流」が発生する確率が減少するのかも知れません。
9. ネットの多様性が各コミュニティ内の同調圧力を産む場合も?
周波数などの有限資源の存在によってチャンネル数が制限されているテレビなどと比べると、ネット上に存在するコミュニティの数は無限とも思えます。 そして多くの場合、ユーザは自分の好きなコミュニティを発見し、その中に入る努力をすることが可能です。
しかし、それは「自分が合わないコミュニティからは脱退する」とか「そのコミュニティにふさわしくない思想は排除する」という考えが発生し易い土壌を形成しているのかも知れないと思うことがあります。 ネットの持つ多様性が、逆にコミュニティ内の意見の多様性に対する寛容さを排除するキッカケになっているということがあるのであれば、それは非常に皮肉な話なのかも知れません。
最後に
この文章は暗い側面に強くフォーカスして書いています。 フォーカスを変えると、恐らく非常に良い側面について語った文章も書けそうです。 例えば、今までは声を上げることが出来なかった職種の方々が自分専用のメディアを持つ事によって既存メディアに対抗できる武器が増えたという視点もあり得ます。
恐らく、「○○に関しては良い」「××に関しては悪い」という場合分けがあり、画一的に「ネットコミュニケーションは危険だ」というわけでは無いと思われます。 と言いつつも、自分を含めて様々な人々が意識せずにネット上のタブーを構築しているんだなぁと感じた今日この頃でした。
いや、でも、これってネットに限らず世間一般としてそういう傾向になる場合があるという話なのかも知れないですね。。。
(*) この文章は「ネットは多様性を殺すかも」という以前書いた記事の書き直しです。 書き直しを行った背景に関しては「クラウド編集者の可能性」をご覧下さい。
参考文献
- wikipedia : Social Identity model of Deindividuation Effects (SIDE)
- wikipedia : Crowd psychology
- wikipedia : Deindividuation
- Diener, E. (1980). "Deindividuation: The absence of self-awareness and self-regulation in group members", In P. B. Paulus (Ed.), The psychology of group influence (pp. 209-242). Hillsdale, NJ: Lawrence Erlbaum.
- Reicher, S., Spears, R., & Postmes, T. (1995). "A social identity model of deindividuation phenomena". European Review of Social Psychology, 6, 161-198
- Spears, R., Postmes, T., Lea, M., & Wolbert, A. (2002). "The power of influence and the influence of power in virtual groups: A SIDE look at CMC and the Internet". The Journal of Social Issues, 58, 91-108.
- M Lea, R Spears, D de Groot, "Knowing Me, Knowing You: Anonymity Effects on Social Identity Processes within Groups", Personality and Social Psychology Bulletin, 2001
- 「空気」の研究, 山本 七平, 文芸春秋, 1983年1月
- インターネット心理学のフロンティア, 誠信書房, 2009年2月
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