「透明性」って本当に副作用が無いの?

2009/11/30-1

先月、ローレンス・レッシグ教授による「The New Republic: Against Transparency」という記事が公開されていました。 多くの人が単純に「透明性は良いことだ」と考えていますが、果たしてそれは正しいのだろうかという内容です。 政府による情報公開が、逆に政策を不安定化させるのではないかという考察が11ページのエッセーになっています。

そこでは、レッシグ教授が政府による過度の情報公開を「Naked Transparency」と呼び、それがどのような害を及ぼすかに関する問題提起を行っていました (今回、この「Naked Transparency」という単語は「素っ裸の透明性」と表現しました)。

Targeted Transparency

レッシグ教授のエッセーでは、「素っ裸の透明性」がどのように悪用されるかを具体的に説明する前に「Targeted Trasnparency」という概念を説明しています。 個人的に非常に納得したのが以下の文章です。

give the consumer data he or she can use, and he or she will use it to "regulate" the market better.

(訳) 消費者に利用可能なデータを提供すれば、彼らもしくは彼女らがそれを使ってマーケットをより良く「調整(規制)」してくれるだろう。

その後、エッセーではTargeted Transparencyについて、情報だけではなく情報の用途も提供すると効果的であると述べています。 エッセーでは、例として車の燃費に関する数値が挙げられています。 単純な「数値」としての燃費という「ルール」があれば、人々はその数値を単純に比較するようになります。 そして、一度ルールが単純化されると、それによってマーケットがどう構成されるかが変わって行くと述べられています。

さらに、以下のように「より多い情報がマーケットをより良くするわけではない」ということも紹介しています。

"More information," as Fung and his colleagues put it, "does not always produce markets that are more efficient." Instead, "responses to information are inseparable from their interests, desires, resources, cognitive capacities, and social contexts. Owing to these and other factors, people may ignore information, or misunderstand it, or misuse it. Whether and how new information is used to further public objectives depends upon its incorporation into complex chains of comprehension, action, and response."

情報に対する反応は、受け手側の興味、欲求、リソース、認知許容量、社会的コンテキストなどによって変化するものであり、それらの要素によっては情報を誤解または誤用してしまうとのことでした。 新しく公開された情報がどのように利用されるかは、様々な要素が絡み合っており複雑であるということのようです。

素っ裸の透明性

前述した「Targeted Transparency」の「解釈の多様性」に関してさらに考えて行くと、情報の受け手側の環境と公開された情報の組み合わせによって登場する「解釈」が、正しい「何か」を示しているかどうかを考えなければならないと、レッシグ教授は述べています。 素っ裸の透明性によって公開した詳細な情報が何も影響を与えないのではなく、恐らく影響を与えるのだろうけど、その影響が好ましいものではない可能性もあるという点を危惧しているようです。

素っ裸になるまで何でもかんでも公開してしまうと、本来は存在しない何かを情報から勝手に読み取って、余計に誤解されることが増えるのではないかというものです。

レッシグ教授が特に心配しているのが「国会議員とお金」という部分のようです。 「ワシントンはお金にまみれている」という認識があまりに広くあるので、その考え方とマッチする情報だけが注目されて行き、「やっぱりお金なんだ」という考えが補強されていくだけなのではないかというもののようです。

でも、本当に全てがお金だけで説明できるのか? 実際はそうではない場合は、どうなるのかという点をレッシグ教授がエッセー中で危惧していました。

私も自分でブログを書いたり、ネット上で注目されているニュースや記事を見ていると、人は自分が見たい物を強く見るということを私も強く感じることがあります。 そのため、文章を補強するための情報が多ければ多いほど間違った誤解も多く発生し兼ねないという意見には賛成です。

そして、それは政治家とお金という視点に限らず影響が発生する気がしています。 例えば、公開されているデータが多ければ多いほど、説得力のある「陰謀論」を構築しやすくなるだろうという思います。 昔、マガジンでMMRというマンガがありましたが、都合の良い情報を何でもかんでもノストラダムスの予言と組み合わせて人類滅亡を語っていました。 MMRはギャグマンガなので、まあいいのですが「素っ裸の透明性」が進行していくと、あれと同じ事をリアルに陰謀論として構成しやすくなるだろうと思いました。

注目の持続時間に関する問題

レッシグ教授は、素っ裸の透明性が発生させる問題は「attention span」に起因していると記事中で書いています。 物事を正しく理解するには、一定以上の注目(注意、原文ではattention)が必要です。 脊髄反射したくなるような見出しや要約の内容ほど、実は精査して背景等を理解する必要があるのかも知れません。

センセーショナルな嘘情報が流れた後に、努力して正しい情報を伝えたとしても、正しい情報を伝えられるようになった頃には人々の注目が持続しておらず、修正情報が伝播しないという状況が良く発生します。

個人的には、このような問題はあると思っていますが、問題は持続というより注目そのものである気もしています。 多くの場合、真実よりも誇張した表現や嘘の方がセンセーショナルであり、注目を集めやすいのではないでしょうか? 間違った内容の煽り記事よりも、誰かが調べて書いた間違い訂正記事の方が大きく注目されることは少ない気がしています。

「頭が良過ぎる」大衆

レッシグ教授のエッセーでは「attention span」問題が発生するのは、大衆の頭が悪いからではなく、頭が良過ぎるのが問題であると述べています。 そこに明記されていない意図を読み取ろうとする意図が強過ぎるのだという主張でした。

Against Transparencyの6ページ目でPeter Lewis氏による1998年のNew York Times記事が紹介されています。 その記事では、Peter Lewis氏が宿泊する部屋の入り口に、妻ではないブロンドの若い美女が訪問し、Peter Lewis氏と腕を組んで出てきたうえに、夕食を供にしてから映画(or劇場??)に行ったのをカメラが捉えていたというものでした。 既婚中年男性が娘ほどの年齢の若いブロンド美女と腕を組んで歩いているという構図だったのですが、その女性は実際にPeter Lewis氏の娘だったというオチです。

隠された事実というのは、無実を示すものではなく、逆にむしろ微笑ましいものであるのに、多くの人は真実を知る時間を少し使うよりも、重要ではない要素に対して無駄に注目してしまうとレッシグ教授は述べています。

恣意的な「透明性」

個人的に「透明性」に関してあると思っているのが、恣意的な透明性による情報操作です。 レッシグ教授が危機感を持っている「正しく無い情報が広まって誤解される」のとは方向性が全く逆で、「公開する側が恣意的に情報を公開して印象操作を行う」というものです。 この恣意的な透明性と「今まで公開されていない部分が公開されたからいいのだ!」が合わさった時に、より大きな威力がある気がしています。

公開された個々の情報は正しくても、全体像を示さなかったり不都合な部分は示さないなどの提示方法が行われた場合、真実とは逆の方向へと解釈が働く場合もありそうです。 「公開された情報」が全体の中でどのような位置づけなのかや、公開された部分が全体のうちのどれぐらいの割合なのか、などの情報も非常に重要だと思われます。

レッシグ教授のエッセーに直接的に書かれているわけではありませんが、考え得る全ての情報を全て公開するということは難しい場合もありそうです。 完全な公開を行うと膨大な労力がかかり過ぎたり、機密上公開できなかったり、プライバシーを侵害したり、パニックを誘発しかねなかったり、その他色々あるのかも知れません。

そうなると、公開する情報を選ばなければならなくなります。 公開する情報の選び方で非常に大きくイメージが変わる場合もありそうです。 また、意図的に特定の情報を公開する事で、そこに注目を集めて目くらましにするという方法もあり得そうです。

恣意的な透明性の手法の一つとして、特定の対象に対しての嫉妬や嫌悪感を煽るために情報を公開し、「透明性」を上昇させるという手法もありそうです。 例えば、特定の組織や業界の平均給与を公開すると、それらが大々的に報道されて、多くの人の中に嫉妬による怒りなどを造り上げることができるのではないでしょうか。

元となるデータが間違ってる場合は?

「恣意的な透明性」に似ていますが、データが間違っていたり虚偽であるという場合もあります。 調査などの過程で純粋に間違った場合もあれば、結果を操作するために意図的にデータ操作を行う場合もありそうです。

マネジメントコンサルティング

レッシグ教授のエッセーについて語っている「O'Reilly Radar:Larry Lessig and Naked Transparency」という記事では、提供する指標を操作することに対して言及した他のエッセーの紹介も行っていました。

「Larry Lessig and Naked Transparency」で紹介されている「THE NEW YORKER: NOT SO FAST」では、企業コンサルティングの世界とデータ操作について語られています。 1910年に企業コンサルティングの走りとなったTaylor氏がデータ操作をしてクライアントを説得していたのではないかという話です。

Matthew Stewart points out what Taylor’s enemies and even some of his colleagues pointed out, nearly a century ago: Taylor fudged his data, lied to his clients, and inflated the record of his success. As it happens, Stewart did the same things during his seven years as a management consultant; fudging, lying, and inflating, he says, are the profession’s stock-in-trade.

THE NEW YORKERの記事は、さらに以下のようにも書かれています。

Stewart reports that one in six graduating seniors at elite colleges is recruited to work in management-consulting firms―how to conduct a "two-handed regression": "When a scatter plot failed to show the significant correlation between two variables that we all knew was there, he would place a pair of meaty hands over the offending clouds of data points and thereby reveal the straight line hiding from conventional mathematics." Management consulting isn’t a science, Stewart says; it’s a party trick.

「エリート大学出身者でマネジメントコンサルティングで働く6人に1人が、みんながそこにあると知っている関連に関してデータプロットがうまくいかない場合はデータを操作している」という感じの事が述べられているようです。

どこまでが本当なのかわかりませんが、少なくともそのように語っている書籍はあるようです。

地球温暖化データ「捏造疑惑」

疑惑であり、現状では実際のところはわかりませんが、最近のデータ捏造系の話題で大きいのが、IPCCによる気候変動データの信憑性問題かも知れません。 そもそも、クラッカーが科学者のメールデータを盗み出して公開したという時点で非常に色々怪しいのですが、The New York Timesで記事(Hacked E-Mail Data Prompts Calls for Changes in Climate Research)になっています。

例えば、この捏造疑惑が真実だった場合、今後のCO2関連議論はどう変化していくのでしょうか? また、真偽不明でこのまま進むにしても、「データの信憑性」ということで議論の進行具合が遅延するなどの影響はあるのかも知れません。

GXロケットの開発費

先日の事業仕分けにおいても議論のベースとなる数値が間違っていたという事例もあったようです。 GXロケットの開発費が700億円とされていたものが、実際には260-270億円だったそうです。

議論のベースとなるデータが間違っている事に対する対処は非常に難しいと思われます。 そもそものデータが誤りであることを想定して「前提」から議論に入るというのは通常はあまり行いません。 データの誤りは、多くの場合後から疑問に思った人が調べて明らかになるのではないでしょうか?

そうすると、結局前述の「Attention span」と同じ問題が発生してしまい、データを捏造したもの勝ちになってしまう場合もありそうです。

「議員のスケジュール公開に意味があるの?」

レッシグ教授のエッセーは、アメリカ国会議員立候補者のスケジュールを公開する「The Punch-Clock Campaign」というプロジェクトに関しての感想から始まっています。 開発者の女性は、レッシグ教授がプロジェクトの素晴らしさに感心すると思っていただろと教授が書いていますが、実際は否定的だったそうです。

例えば、この国会議員スケジュール公開プロジェクトによって提供されるような「素っ裸の透明性」に関する動きが加速することは、政治システムを崖から突き落とすようなものではないかと述べています。

The "naked transparency movement," as I will call it here, is not going to inspire change. It will simply push any faith in our political system over the cliff.

個人的にエッセーを読んで「素っ裸の透明性」を悪用する手法として思いつきそうなのは、例えば次のような手法です。

  • 国会議員のスケジュールを見る
  • 有力企業、もしくは何らかの団体の代表等のスケジュールを見る
  • その時期に関連する法案や会議などの一覧を見る
  • 「○月×日に○○議員と××代表の居場所が近かった。あくまで推測の域は脱しないが、その後の□□法案に関しての議論の進み方を見ていると○月×日に、△△で密会があったとしてもおかしくない。」

その他、様々な数値やデータを無理矢理組み合わせる事で「説得力のある怪文書」を作りやすくなると思われます。 あとは、複数の芸能人の動きと合わせて参照して、一致する日程が多い相手との「密会疑惑」を捏造することもできそうです。

Twitterやってるから応援するの?

レッシグ教授が例として出している国会議員のスケジュール公開プロジェクトは、情報公開というよりも宣伝に近いのかも知れないと感じました。 各議員候補が「私はこんなに頑張ってますよ!」というのをアピールするためなのではないでしょうか? 本人もしくは関係者による書き込みでは、恐らく、不都合な情報は書き込まれず、見た目が奇麗な情報しか発信されないと推測されます。

個人的に最近思うのは、国会議員と情報公開による宣伝という意味では、日本でもTwitterによる宣伝がうまくいっているように見えます。 この前の選挙で、Twitterアカウントを取得している議員を政党に関わらず無条件に応援している人が多数居てびっくりしました。 「Twitter議員はみんな当選すればいい!」という感じでしょうか。 Twitterアカウントを取得している議員の政党や主張や活動をあまり気にせずに、「Twitterユーザである」という一点のみを気にして「応援」している人々がそこに居ました。

芸能人や政治家が利用するTwitterは、恐らく一般ユーザが使うTwitterとは別物です。 常に「人に見られる」という事を強く意識しながら、宣伝を目的とした限定的な情報開示を行い続けているものと推測されます。 そこで行われている情報開示は、恐らく自己開示というよりも自己呈示に近いのではないかとさえ思います。

ただ、Twitterによる情報開示は非常に高い効果があるように思えます。 「Twitterでのつぶやきを見ていたら政治家に対して親近感が湧いてきた」と言っているユーザが多く居ました。 でも、やっぱりそれって「透明性」じゃなくて、「宣伝」だと思うんです。

Twitterを使った「宣伝」が悪いとは思いません。 むしろ、積極的にやるべきだと思います。 しかし、それを見る受け手側も、それを「宣伝」だと理解したうえで楽しむ何かだと個人的には思うのですが「Twitter議員はみんな頑張れ!」という形になっていってしまうようです。 「Twitterをやってる」という視点だけで「政治家」を判断するのが、果たして正しいのでしょうか?

私は「ネットユーザは辛口」という印象を昔は持っていましたが、実はそんな事は無く、「身近に感じたら応援する」という意味ではネットユーザもそうでない人々とも恐らく同じで、「何を持って身近と感じるか?」という要素が違うだけである気が最近してきました。 そう思うと、ネットユーザを含めて「宣伝のための透明性」は非常に威力のある手法だと感じました。

レッシグ教授は透明性は無いと考えているのか?

レッシグ教授が書いた「Against Transparency」というエッセーは、タイトルからして「透明性に反対する」というものです。 しかし、レッシグ教授は「公開すること」や「透明性」そのものに関して批判的であるわけではありません。 情報公開の利点もエッセー中で述べられていますし、公開することの良さを肯定しつつも同時に発生する可能性がある副作用に強くフォーカスしたという内容になっています。

レッシグ教授のエッセーの最後は以下のように結ばれています。

Likewise with transparency. There is no questioning the good that transparency creates in a wide range of contexts, government especially. But we should also recognize that the collateral consequence of that good need not itself be good. And if that collateral bad is busy certifying to the American public what it thinks it already knows, we should think carefully about how to avoid it. Sunlight may well be a great disinfectant. But as anyone who has ever waded through a swamp knows, it has other effects as well.

レッシグ教授のエッセーは、レッシグ教授が書く事に意味があったのだろうという感想を持ちました。 例えば、Creative Commonsを作ったのもレッシグ教授です。 レッシグ教授は、オープンを否定する人物ではなく、むしろ様々なことがオープンであることを強く推進してきた人物です。 GNUプロジェクトの主要スポンサーであるフリーソフトウェア財団の理事でもあります。

公開することや透明性に関して活動を行ってきたレッシグ教授が「公開することの危なさ」について憂慮するエッセーを書いたということもあり、ネット上の様々な論説や反論なども「でも彼は透明性そのものを否定してるわけではない」と大抵書いてあり、冷静な反応が多い気がしました。

最後に

非常に大きな利点を伴う変化には、ほぼ必ず何らかの副作用がありそうです。 レッシグ教授によるエッセーの11ページ目にも以下のように書いてあります。

Reformers rarely feel responsible for the bad that their fantastic new reform effects. Their focus is always on the good. The bad is someone else’s problem. It may well be asking too much to imagine more than this.

(訳)改革者達は自分たちが提案している素晴らしい物が発生させる負の側面に関する責任を持つことがほとんどない。 改革者達の視点は良い側面にしか無い。 悪い側面は誰か他の人の問題でしかない。 多分、負の側面まで考えろというのは要求し過ぎなのかも知れない。

「透明性」に関しても、透明性が上昇することで発生し得る問題点や、その「透明性」が単なる誘導ではなく本当に「透明」であるのかどうかなど、実はかなり複雑で難しい課題なのではないかと思います。

透明性に限らず、インターネットに関わる様々な事で薔薇色の未来を語る方々が非常に多いのですが、薔薇にはトゲがあり、そのトゲがどのような副作用を発生させるかも同時に考えた方が良いのかも知れません。

レッシグ教授のエッセーは、「地獄への道は善意で舗装されている」という話の「透明性」版を恐れているのかも知れないと思った今日この頃です。

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