文系的IT業と理系的IT業

2008/8/28-1

まず、最初に。 私は自分を文系だと思っています。

何故私が「文系」か

私はSFCの環境情報学部と政策メディア研究科(前期/後期博士課程)を卒業しています。 「政策・メディア研究科」と言われて「理系だ」と思う人は少ないと思われます。 「政策なんですか?」と良く聞かれます。

大学では、いわゆる理系学部で学ばれるような基礎的なものを学んでいません。 例えば、学部時代に「企業と会計」とか「国際紛争論」というような授業を受講したりしました(成績は聞かないで下さい。。。)。 一方で、画像解析プログラミングの授業や、圧縮アルゴリズムなどを学ぶ授業も受講しました。

そのため、バリバリの理系な方からすると私は非常に中途半端です。 というよりも、研究室時代に学んだ部分に知識が偏っています。 「え?これ知らないの?」という事は良く言われます。

一方で、バリバリ文系な方からすると「理系的」に見えると思います。 ある意味、どっちつかずです。 ただ、最近自分は文系寄りなのではないかと感じています。 (もちろん理系がかったところはあると思うのですが。。。)

ITは理系だよね?

私は「コンピュータだから理系」という発想に対しても疑問を持っています。 コンピュータやITの世界全体を「理系」とひとくくりにするところに無理があるような気がしています。

例えば、ルータやサーバのメンテナンスはIT系職業になります。 しかし、そこに求められるのはどちらかというと理系的というよりも文系的です。 数ある設定項目を覚えて、政治的な問題点を考慮しつつ状況を判断し、設定を行っていきます。 さらに、問題があるときでも無いときでも一定の監視作業を行います。

プログラミングにも理系的なプログラミングと文系的なプログラミングがあると考えています。 整えられた環境の上で様々なモジュールやライブラリを組み合わせて、半自動化されたツールの使い方や組み合わせ方で独自性を出すようなプログラミングは理系的というよりも文系的である気がしています。 そこでは、「コードを書く技術」よりも発想や知見の広さなどの方が大きな影響を与えると感じています。 (もちろん、コードを書く力があることが前提ではあります。)

一方で、組み込みプログラミングや、カーネルいじりや、デバドラ書き、画像解析アルゴリズムの開発、圧縮アルゴリズムの研究などに付属しているプログラミングは「理系的な」プログラミングだと考えています。 細かい組み合わせや、デザインパターンや、アルゴリズムなどを考えつつ、チマチマと作業を進めます。 (文系的プログラミングにはデザインパターンやアルゴリズムが必要無いと言っているわけではないので、ご注意下さい)

仕様書に書いてある内容をコードに落とす職業をプログラマではなく、コーダ(coder)と表現することがあります。 コーダ的職業は理系的というよりも文系的な気がします。 コーダという表現は蔑みを含んで使われる事がありますが、コーダという職業が価値の無い仕事と私は思っていません。

決められた範囲内において最大のパフォーマンスを出すところに喜びを見出す人だっています。 決められた範囲内においてしっかりとバグを潰し、仕様書通りに細部を完成させられるのであればコーダであったとしても偉大です。 ただ、現状での問題はスキルがある人でコーダというやり方に満足するタイプの人が少ないのと、スキルが無いまたは発展途上で成果が出しにくい人が多く割り当てられる傾向がありがちである点かも知れません。

あと、技術を理解しつつ仕様書を仕様書として、まとめあげられる技術力を伴った文章力という能力もあり得ます。

ITは理系という発想が間口を狭くしていないか?

「ITは理系」という発想がIT系を志す学生を減らしているのではないかと思うことがあります。 「私は文系だから」という理由で入り口にも立たない人がいそうです。

「ITの世界にも文系の方が強いジャンルもありますよ!」というメッセージを発信したり、既にIT界にいる人達が「IT界はかくあるべき」という観念を多少緩める事ができれば、状況が変わる面もあるのではないかと考えています。

教え方にバリエーションを持たせてみてはどうだろうか?

学校やその他場所でのプログラミング等の教え方にも工夫を持たせられることができそうです。 現状では、プログラミングを教えるのは主にバリバリないわゆる理系的な方々です。

そのような方々の教え方は、とても「理系的」である事が多い気がします。 「ほら、楽しいだろ!やってみろよ!自分で興味を持ってやろうぜ!好きなもの作って楽しもうぜ!」という雰囲気が場を支配している場合があります。 恐らく、私にもそのような側面はありそうです。

しかし、無限のブルーオーシャンを渡されても途方にくれるだけであきらめてしまうタイプの人もいます。 そのような方々も、やるための方法や手段や、やるべき事を明確にすれば凄い才能を発揮する人もいます。

「書籍やネット上の情報が無限にあるから高速道路は整備されている!自己責任!」という思想ももちろんありですし、根本にあるのは自己責任ではありますが、 「次はこれをやって。その次はこれ。」というような何かをするタイミング(トークン)を渡していくという教え方もあるのかも知れないと感じています。

というより、間口を広げたり母数を増やすというのはそういうことなんだろうなぁと思い始めました。 数人のハッカー(not cracker)が生まれるには1万人の教えて君という土壌が必要なのかも知れません。 独自に生まれてくるハッカーもいるのでしょうが、その数を増やそうと思ったら初心者止まりの人の数が増える事を容認するのかなぁと。。。

文系/理系とは何か?

そもそも、理系的とか文系的って何でしょうか?

何が出来れば理系で、どこにこだわれば理系なのでしょうか? 例えば、とある事象を「文系的/理系的」と分けようと思っても、人によってそれが文系であるか理系であるかの解釈が違うものも多数ありそうです。

そもそも、人は多面性を持つものです。 ある分野に関しては「理系的」に見えても、他の分野や行動は「文系的」となるかも知れません。 多くの場合、「理系/文系」を0と1のように分けたがっているように見えますが、そのようにデジタルなものなのでしょうか? 「私は37%理系だけど63%は文系だ」という表現をしている人に出会った事はありませんが、そのような表現があっても良のではないでしょうか。

散々理系的とか文系的とか書いた直後に、こんなまとめかたになるのもアレですが。。。 まあ、頑張れば今よりも間口は広げられるのではないかと思う今日この頃です。

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